舞台「幕が上がる」千秋楽感想 – なんだ、いるじゃん、中西悦子。 #幕が上がる #momoclo


随分公開が遅くなった。

有安杏果よ。もうな、色々遅すぎるねん。
このクオリティを、何故映画で出せなかったの?

舞台のライブビューイングをひと通り観終わった第一声がこれだった。

初めての舞台、しかも共演者は本当の女優さん、舞台経験豊富な人までいることで、ももクロの重圧たるや相当なものだったとは思う。
それでも百田夏菜子は相変わらず彼女なりの「高橋さおり」を体現していたし、高城れにはネタ要員、出演者の中の潤滑油を見事にこなしていたし、映画では感情表現の種類の乏しさが不安だった佐々木彩夏は格段に表情豊かになっていたし、玉井詩織に至ってはもはや「主演女優」の風格すら漂わせていた。

さて、有安杏果である。
私は映画で割と不満を抱いていた
何と言っても、彼女が演じる中西悦子の設定が、安易に有安杏果自身に寄せられてしまっているように思えたのだ。
モノノフ、殊に有安杏果ファンであるならば「滑舌が悪い」「声が出ない」といった台詞にドキッとする方が多いと思う。有安自身を想起させる設定であればこそ、感情移入するのもさほど困難ではないはずだ。
それは安易な「モノノフへの媚び」でもあるのだけど。

その時の疑問、もっと言えば懸念への解答が、舞台において示されているように思えた。

中西悦子を岩手出身にしたこと、被災経験者にしたこと、そして断言はされていないものの、そこで友人を失ったこと。
ここまで来ると原作には縛られていないのは間違いないのだが、それは大きな問題ではない。
問題は架空の人物である中西悦子を、いかに現存しているように見せられるかが全てであったのだ。

映画では、言うまでもなくメインは百田夏菜子演じる高橋さおりであり、背景が深く描かれているのも高橋さおりしかいなかった。
限られた映像の枠の世界であったが故に、他の4人まで描こうとすると120分前後では収まらなくなるし、総花的にもなってしまうから当然ではある。
ただ原作から一番設定を変更されている中西悦子に対して、どうしても違和感を拭い去れないでいるのも正直なところであった。
自分が有安杏果推しであることを差し引いても、もう少しどうにかならなかったのか、という残念な思いがずっとあったのだ。

しかし、この舞台の上演期間の中で、有安杏果は気づいたのではないか。
「中西悦子は、『もうひとりの自分』なんだ」ということに。
声が出なくても仲間に打ち明けることが出来ない。
自分の抱える感情を共有するすべを知らない。
せっかく作ることの出来た仲間の輪が壊れてしまうのが怖い。
とんでもない才能を持っているのに、それを発揮するメンタルが稚拙。
不器用。
そして何よりストレンジャー。

映画では「中西悦子が自分の方に寄って来た」が、それは「合わせてもらった」のではなかった。
中西悦子は『もうひとりの有安杏果』であり、少なくとも私はそれに気づかなかったのだ。

舞台の実質上の主演は玉井詩織であり、優れた狂言回しは百田夏菜子であった。
ただ「中西悦子が、確かにそこにいた」、それが分かっただけでこの舞台を観に行った価値が、私にはあったのだ。