映画「幕が上がる」非モノノフ向け感想 – 中西悦子が見当たらない


【注意】
タイトルにも書いた通り、ももいろクローバーZに別段の思い入れのない方々を念頭に書いた文章です。
そうでないモノノフの方、特に有安杏果推しの方々は読まないことを強くお勧めします。
ご気分を害されたとしても一切責任を負いかねますので、ご了承くださいませ。

 

 

 

さて、記憶が薄れないうちに書き残しておこうと思う。

先日このようなレビューを書いたが、実のところ後悔している。
この内容は紛れも無く私の本心ではあるが、正直モノノフの反応にかなり気を遣ったものになっている。自分自身が間違いなく抱いた疑問を半分も書けていなかったのだ。

映画「幕が上がる」。
私は原作を読んでから映画館に観に行ったが、「良く頑張った」映画だと思っている。

不満はある。
やはり「銀河鉄道の夜」の県大会の模様は映像にすべきではなかったか、とか。
さおりの煮詰まった妄想の中に「Chai Maxx ZERO」などももクロのネタを差し込む必要はなかったのではないか、とか。
ラスト前に5人全員揃うシーンをわざわざ入れる必要はなかったのではないか、とか。

それでも実質上最初の、そして恐らく最後の「ももクロ5人全員主演の映画」である。
当代随一の人気アイドルグループを主演に据える一大プロジェクト。本広克行監督にせよ、脚本の喜安浩平氏にせよ、その他製作にかかわった関係者の方々全員、重圧は物凄かったであろうと想像する。
そのプレッシャーをはねのけての奮闘は間違いなく形になっていると思う。
殊に「ももクロの魅力を映像にした」という点では大成功の映画ではないだろうか。

事実、この映像の中にいる5人の姿の可憐なこと。
彼女たちの魅力を十二分に認識しているファンは勿論大満足のはずだし、そうでない方々にも「演劇に青春を賭ける女の子たち」の有様を通じて、改めてももクロの5人を「気づかせる」のに十分すぎるくらいの作品だと感じた。

ただ、だからこそ、ひとつの映画として魅了はされなかったのが正直なところである。

この映画の最大の長所は、百田夏菜子が高橋さおりを演じたことだと思う。

撮影にあたり、彼女は平田オリザ氏の原作を事前に読まなかったという。実に彼女らしい。
それは結果的に奏功したのではないか。原作に縛られ過ぎない、百田夏菜子なりの高橋さおりを、特に物語の後半で演じ切ることが出来たのではないだろうか。

県大会の予選で敗退した後の「私は勝ちたいんです」という、穏やかな中に潜む負けず嫌い。
黒木華演じる吉岡先生に傾倒していく序盤。
脚本を自ら書くことになり、七転八倒する中盤。因みに「Chai Maxx ZERO」などは不要だがプールに飛び込むくだりはいいと思う。
あっさり吉岡先生が「離脱」した直後の涙、そして「もう自分が吉岡先生になるしかない」と覚悟するシーン。
そして終盤。

原作とは少なからず違うものの、この映像の中には確かに高橋さおりがいた。
そう思わせることが出来る、魅力ある主演女優が百田夏菜子だったのだ。

さおりの自宅での、母親役の清水ミチコとのやり取りもとてもいい。
昨年のバレンタインデーイベントでの共演は今回の布石だったのだろう。緊張していた百田夏菜子もとてもリラックスしてシーンに臨めたのではないだろうか。

このように、高橋さおりは確かにいた。

橋爪裕子は、ティザー映像で確認できたマジックが本編ではまるごと削られていたのが惜しい。玉井詩織はいわゆる「憑依型女優」の素質があると思う。新宿副都心のビルを見上げるあの表情など、さすがだ。もっと出来る人だと思うだけにちょっと勿体なかったが、こちらも確かに映像の中に存在していた。

西条美紀は……役柄が役柄だっただけに、こちらは高城れにの使われ方自体が勿体なかった。ただ吉岡先生の「離脱」で見せた怒りをはらんだあの表情は素晴らしい。「肖像画」での何とも言えない穏やかな空気感。ポテンシャルを感じた。彼女も確かに映像の中にいた。

加藤明美は……佐々木彩夏の感情表現のバリエーションが、意外に少ないのではないかと率直に感じた。「目」でもう少し語って欲しかった。でも、初舞台でのミスをずっと引きずって舞台裏に消える際の表情は良かった。彼女も間違いなく映画の世界で息づいていたと思う。

ただ。
中西悦子だけは存在を確認できなかった。
スクリーンの中にいたのは、中西悦子の設定を身にまとった有安杏果だったのだ。

私のももクロの推しメンバーであるだけにこれを申し上げるのは大変心苦しいのだが、この映画の最大の欠点は、有安杏果が中西悦子役であることだと思うのだ。

原作の中西悦子は、高校演劇の強豪校のエースだった人であり、不思議なオーラを放つ、どこか謎めいて存在が掴めない、いかにも「女優の卵」なキャラクターである。
対峙する高橋さおりにとっては「雲上人」に見えた存在であり、後に同僚となる橋爪裕子にとっては、部の中での「お姫様」の地位を脅かされる予感を抱かせる存在でもあったはずだ。
富士ケ丘高校に転校してきたのも「前の学校の演劇部の顧問との関係」だったと思う。

映像での彼女は、確かに可憐でとても可愛らしい。ショッピングモールでさおりと偶然遭遇した時の私服姿の彼女には、率直に言って見惚れてしまった。
だが、女優のオーラはあまり感じられなかった。言葉少なではあるが、謎めいた雰囲気もなかった。
そして転校理由が「滑舌が悪い」、そして「声が出なくなる」。

原作に必ず沿わなければならない、などとナンセンスなことを言うつもりはない。
そもそも私が先に原作を読んでしまったこと、そして熱烈な有安杏果ファンであることも大いにあると自覚もしている。
それでも、百田夏菜子が「彼女なりの高橋さおり」をすぐ横で体現している様を見てしまうと、そういうことは言い訳にならないと思ってしまうのだ。

有安杏果は本人なりに物凄く考え抜いてこの映画に臨んだのだろう。
そもそも映画での設定がこうなってしまったのは彼女の責任ではない。
ただ、有安杏果という人の今までの道程を多少なりとも知るファンのひとりとして、映画に散りばめられた、演者の実像を連想する要素を目にするにつけ、映画自体に対して興ざめしてしまうのだ。
だから私は、映像の中に中西悦子を見つけることが出来なかったのである。

女優、いや俳優というのは様々なキャラクターを演じるにつけ、常にそのキャラクターに自分を寄せる作業が発生するというのは良く聞く話である。
そのためには、自分自身が何色にも染まるようになる必要があるはずである。
事実、今回好演した黒木華は、野田秀樹から「何色にも染まることが出来る女優」であると評されている。
(→ 黒木華インタビュー『“何色にも染まることが出来る女優”の内側』- ORICON STYLE)

その意味で、今回の有安杏果について私は評価することが出来ない。
本人だけの責任ではないとはいえ「自分の色しか出せなかった」のだから。

高橋さおりというキャラクターを自らの手で自分に引き寄せることが出来た百田夏菜子。
中西悦子というキャラクターが勝手に自分の方に寄って来てしまった有安杏果。
端的に言うと、こういう違いなのではないだろうか。

とても期待していただけに、そして良い意味で想像を裏切られたことが多かった映画だけに、どうしようもないことなのだが、この点が惜しいし、悔しい。
もう少しどうにかならなかったのか、と思ってしまうのである。