レヴェナント:蘇えりし者(原題:The Revenant)


レオナルド・ディカプリオが関わる映画というのは、観終わった後に「感動した!」とか「良かった!」とか一言で言い表せないものを、鳩尾のあたりに深く叩き込まれる感覚がある。

心斎橋のミニシアターで観た、ナイフのように鋭利な眼光と何とも言えない艶かしさに唖然とした「太陽と月に背いて」にしてもそう。
複雑過ぎる物語の果ての、ラストのえげつなさに打ちのめされた「インセプション」にしてもそう。
Amazonプライムビデオで最近観た、真夜中に頭が痛くなった「シャッター・アイランド」にしてもそう。
本来、物語というのは「良かった」「悪かった」「楽しかった」「苦しかった」と一言で言い表せないものだが、映画というたかだか数時間のパッケージに詰め込まれたものを見慣れているとつい、「簡潔にまとめなければならない」という強迫観念に駆られるのではないだろうか。

ディカプリオの映画はそうした強迫観念を観客に許してくれない。
物語とは、人生とは、本来はそういうものだという事実を、気が遠くなるほどの労力と熱意を持って観る者に突きつけて来る。

レオナルド・ディカプリオという人は、自分の格好良いパブリックイメージを保つことに全く興味がないように思える。
自分が伝えるべきだと考える物語を、何としても映画という形にすること、それだけを考えている人なのではないだろうか。

この「レヴェナント:蘇えりし者」も例外ではない。

西部開拓時代、アメリカ北西部に実在した毛皮商のヒュー・グラスが、先住民の女性との間に出来た息子・ホークをチームの仲間だったフィッツジェラルドに殺され、極寒の森に置き去りにされたものの、息子の仇を取るべく生き延びるという物語。
アメリカ先住民に命を狙われ、グリズリーと呼ばれる熊に襲われて瀕死の重傷を負い、吹雪に凍えそうになり、川の濁流に呑まれ……
それでも生き延びようとする、グラスのバイタリティは一体どこから湧いてくるのだろうか。
ひたすら自然に翻弄され極寒の地をのたうち回る彼の姿には、復讐の怨念はあまり見受けられなかった。無論、愛する息子を亡くした失意はあったと思うが、息子の出自が理由なのか、どこか「負い目」を感じているようにも思えた。
だからこそ、仇であるフィッツジェラルドも一面的な悪には思えなかった。本人がいけしゃあしゃあと言った通り「生き延びるためには仕方なかった」のだろう。

不要な台詞は極力排して、人が人として必死に生き延びようと、みっともなくもがき苦しむ様を、残酷に、冷酷に描き切った。
そういう映画だったと思う。

ディカプリオは勿論のこと、憎らしくも食えない男・フィッツジェラルドを演じ切ったトム・ハーディが素晴らしかった。
あと、ホークを演じたフォレスト・グッドラック。デビュー作とは思えない堂々とした演技だったと思う。生い立ちが面白そうだし、今後注目したい。